無知にして、無力。なれど思う。

先日、ひょんなことから広島まで遠出。
原爆ドーム平和記念公園広島平和記念資料館を見た。


八月だし、戦後60周年だしってこともあったんだろうか、
結構混雑していて少しばかり驚く。

長崎の平和公園/平和祈念像は訪れたことがありましたし、
沖縄出身者ですから、ひめゆりとかにだって当然。
戦争について、とか、平和について、とか、
自分では考えているつもりだった。

でもね、やっぱり常日頃、自分がいかに
何も考えずすごしているかを改めて知らされた。

強烈なメッセージ。
そこにこめられた痛切な意味。
その場に存在するすべてのものが伝えてくる。
止まった時計。砕けた建造物。そして遺品の数々。


「自虐的歴史観」と「戦争認識の薄さ」
戦後教育と周辺各国との認識の違い。
さいきんとみに問題となってる。

少なくとも、あの場所は俺の目には公平に見えた。
そこには、被害者の過剰意識も、加害者の自虐意識もなかった。
ただ、そこには、ただ戦争の悲惨さを伝え、
平和の大事さを伝えようという意志だけがあった。

右も左もなく、それだけを見たとき、
なにかわかるものがあるんじゃないだろうか。


昨今、憲法改正とか集団自衛権とか、
あるいは歴史認識問題とか、テロとの戦いとか、
俺らの周りの環境はずいぶんと変わった。
感覚的に、だが、どうもずいぶんと雑になっている気がする。

在阪の討論番組の中で、「沖縄に基地を負担させることは良くない」
というテーマがあり、それを話し合うなかで、
「米軍を沖縄から無くすためにはどうすれば良いか」
という話題の答えが「自衛軍をつくり自前で自分たちを守れるようになる」
だった。

正直言って、その答えも「?」です。
俺だけじゃないと思う。沖縄のひとは、米兵が出て行ってくれるために、
憲法を変えて軍隊を持とうと言ったら、答えはNOだと思うんだ。

俺には専門的知識はない。
米軍にも自衛隊にも頼らずどうするんだ、なんて言われて答えられる術もないし、
ここで討論を申し込まれても、勝てる気はさっぱりしない。


だけど、それでも、俺は釈然としない。
戦争に負けたから、だけではなく、
唯一の被爆国だから、でもなく、
押し付けられたとはいえ平和憲法だから、というわけでもなく
普通に平和を願ってはいけないのだろうか。


リアリズムは大事なんだろう。
理想では飯は喰えず、国は守れないのかもしれない。


でもなあ、憲法改正にも、自衛軍にも、
俺はYESとは言えない。
言えないなあ。

考え方が成熟してない。それでもいいや。

ここ数日。いや数週、か。
仕事に身が入っていない。
勤務中に気を抜いてる、というかサボってることが多い。
いや、仕事はちゃんとしてるんだけどね。
空いた時間というか、抜いた時間があるんだな。

いかんねえ。辞めるからこそ丁寧に。
そう思ってるし、辞めるからってつもりで
気を抜いてるわけじゃないんだけどさ。

でも、そう思われても仕方がない状態ではある。

気合入れなおして、仕事しよう。
ここを去る時、最後まで、しっかりと。